高妻容一氏の経歴及び高妻会の歴史

 




高妻会は、師範の高妻容一の名前からとられたが、高妻が作った組織ではなく、米国の弟子たちが作った組織である。

その由来は、下記のようである。
1971年に少年マガジン連載の「空手バカ一代」に感化された高妻が、極真会館の通信教育からスタートし、
当時、全日本王統流空手練尚館・現、少林寺会館:長谷場大和館長(宮崎市)へ入門し、空手をはじめたことから話をはじめる事にする。

ここで黒帯を獲得して1975年から福岡大学体育学部へ入学し、空手部へ入部するが寸止め空手に物足りなさを感じ、
当時としてはめずらしかった、フルコンタクトカラテと防具付空手をしていた現全日本格闘技連盟真武館(福岡市)本川廣館長へ入門した。
高妻容一は福岡大学の4年間を指導員として過ごし、1977年インターナショナル空手古武道連盟養秀会主催の、全日本
オープントーナメントで全階級優賞(軽量級:中村善治、中量級:高妻容一、重量級:秋穂修実;修和会館館長・福岡県甘木市)した。
 その後、真武館はインターナショナル空手古武道連盟に所属し、高妻もそこで3段を認可され、
その年福岡大学卒業。中京大学大学院修士課程体育学研究科(体育心理学専攻)に進学し修了、
1981年に米国フロリダ州立大学に留学(語学・博士課程スポーツ心理学専攻)した。
 この大学にインターナショナル空手古武道連盟養秀会の米国支部があり、練習に参加。
半年後、養秀会山本守会長が米国アラバマ支部での大会に渡米し、養秀会全米オープン選手権大会で高妻がデモンストレーションをし、
その時、4段と支部長認可をされ、フロリダ州立大学に空手部(US養秀会フロリダ州立大学支部)を設立。
1985年まで、延べ1000名以上に指導、日本からの指導員が来たとのことで、
各流派の黒帯や指導員クラスが入門し、60―120名が毎日の練習に来るようになった。
 1985年10月に日本へ帰国する際、フロリダ州立大学空手部(クラブ名:Japanese Karate−do)幹部が
養秀会からの独立を希望。高妻は、流派等に無関心であり、「空手は空手」という考えから
「空手道」のみを名乗ってはとアドバイスしたが、幹部たちが流派を名乗りたいので、名前を使わしてくれと依頼され、
国際武道空手連盟「USA高妻会」(フロリダ州立大学本部、アトランタ支部、セントラルフロリダ大学支部、
フロリダ大学支部、ニューヨーク支部など、また弟子がドイツ、フランス、スペイン、オランダ、アラブ諸国、
ハイチ協和国等に帰国)が誕生した。そして、高妻は国際武道空手連盟から主席師範6段として認可され、
USA高妻会の師範として、まつりあげられた。
 USA高妻会は当時、あくまで米国だけの組織として活動。しかし、真武館がインターナショナル空手古武道連盟から離れ、
全日本格闘技連盟真武館としてスタートした。そのため、高妻は、2つの組織への義理もあり、両組織のOBとしての立場を取った。
 また、日本へ帰国後、近畿大学教養部保健体育科へ勤務し、大学の授業として空手を指導するようになり、
各流派のごたごたを持ち込みたくないという思いがあった。また、米国にてスポーツ心理学を学び、
空手の練習方法にメンタルトレーニングを導入したりして、科学的なトレーニング方法を採用したことや
米国で友人となった中国拳法、テッコンドウ、各空手流派の師範たちとの交流から学んだ方法も導入し、
伝統的な空手から距離をおくようになったため、米国で誕生した「USA高妻会」の名前を使うようになった。
 ここに日本における「高妻会」が生まれ、近畿大学本部キャンパスにて1986年から練習を開始、
1989年には、近畿大学農学部空手同好会としてスタートした。正式には、USA高妻会だが、
略称「US高妻会」として現在にいたる。
 2000年4月、高妻が東海大学体育学部に勤務先を移し、東海大学の授業でも「フィトネス理論実習」、
フィジカルトレーニング演習」、「空手理論実習」を担当し、メンタルトレーニングを活用した
空手の指導をするようになった。




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監修:高妻容一氏